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第2回 音楽教室対JASRAC事件 – 生徒の演奏に著作権使用料を払わなければならないのか? 音楽教室債務不存在確認請求事件最高裁判決

知的財産権・エンタメ

目次

  1. 音楽教室事件の背景
  2. 音楽教室事件の概要
    1. 経緯
    2. 争点
  3. カラオケ法理とは
    1. カラオケ法理の誕生(クラブキャッツアイ事件)
    2. カラオケ法理の拡大(ファイルローグ事件、MYUTA事件、まねきTV事件、ロクラクII事件ほか)
    3. カラオケ法理が埋める法の穴
    4. カラオケ法理に対する批判
    5. 最高裁による行為類型ごとの規範の定立
    6. 古典的カラオケ法理からの脱却
  4. 音楽教室事件判決の判旨 ―生徒の演奏は、音楽教室の演奏なのか?
    1. 東京地裁「生徒の演奏も音楽教室が演奏主体である」
    2. 知財高裁・最高裁「生徒の演奏はあくまで生徒の演奏である」
    3. 最高裁による総合判断アプローチ ― 古典的カラオケ法理からの卒業
  5. 本判決を踏まえた企業実務のポイント

 2022年(令和4年)10月24日、最高裁判所で著作権侵害をめぐる1件の判決がありました。「音楽教室事件」と呼ばれ、知財関係者の関心を集めたこの訴訟は、全国で音楽教室を営む個人や法人249名が原告となり、一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)を訴えた事件でした。

 訴訟ではさまざまな争点が争われましたが、最終的に問題になったのは、音楽教室は、生徒の演奏について著作権使用料を支払わなければならないのか、という点でした。今回は、この問題について、背景にあるカラオケ法理の歴史も紐解きながら、この判決を読んでいきたいと思います。

⚫︎音楽教室事件
原告:全国で音楽教室を営む個人や法人249名
被告:一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)
原告らの音楽教室における被告の管理する楽曲の使用について、被告が原告らに対して請求権を有しないことの確認を求めた訴訟。

音楽教室事件の背景

 本訴訟における利害の構図を見ると、被告となったJASRACは、人々の心の糧となる音楽を生み出す作家たちのために楽曲を管理する団体である一方、原告となった音楽教室は、演奏を通じて人々に音楽を届ける演奏家たちを育てる事業者です。事件の背景には、それぞれの立場で日本の音楽文化を支える人々の利害の衝突があったといえます。

 他方、法律論としてみると、この事件の背景には、かつて北九州市のカラオケスナック「クラブキャッツアイ」を舞台に繰り広げられた、ある著作権侵害事件の最高裁判決があります。この判決が現れたのは、時代があと1年足らずで昭和から平成に移ろうとしていた1988年(昭和63年)3月のことで、争点はカラオケ設備を置く飲食店の演奏権侵害の成否でした。2022年の音楽教室事件判決からすると34年前、まだガラケーもなかった時代の出来事です。

 ところが、この判決、2000年代のデジタル技術、ネットワーク技術の進展の中で、一躍注目を浴びるようになります。新しい技術を用いた著作物の利用行為に対してこの判決に示された法理が用いられ、次々と著作権侵害が認められていったからです。その法理は「カラオケ法理」と呼ばれ、喧々諤々の議論の中で姿を変えながらも、デジタルとネットワークが花開いた平成の著作権法を支えてきました。

 音楽教室事件判決は、こうしたカラオケ法理の1つの到達点または回帰点ともなっています

音楽教室事件の概要

経緯

 ご存じのとおり、JASRACは、楽曲の著作権の管理を受託する会社で、主要な業務は、著作権者から著作権を譲り受けて楽曲の利用者から使用料を徴収し、これを著作権者に還元することです。なぜ、そのような法人が、全国の音楽教室事業者から訴えられたのか。ことの発端は、楽曲の利用についてのJASRACの使用料規程の改訂にありました。

 従来、JASRACは、音楽教室のレッスンにおける楽曲の使用について使用料を徴収しておらず、使用料規程にも該当の定めがありませんでした。JASRACは、その徴収をすべく調整を図りましたが、合意が形成されるに至らなかったため、2017年2月9日、使用料規程の中に「音楽教室における演奏等」という項目を新設し、さらに、使用料徴収を開始することをヤマハ音楽振興会に通知するとともに、同年6月7日、文化庁に使用料規程の改訂の届け出をしたのです。

 新しい使用料規程が適用されると、音楽教室事業者は、それまで支払っていなかった使用料を支払わなければならなくなります。これを不当と考えた原告らが、同年6月20日、JASRACに対する使用料の支払義務がないことの確認を求めて、東京地裁に提訴しました。音楽教室向けの使用料の定めに著作権法上の根拠があるのか、その判断を裁判所に求めたわけです。

争点

 本訴訟では、レッスンでの楽曲の使用が演奏権を侵害するかが問題になりました。

 演奏権は、著作権を構成する権利の1つで、「著作物を、公衆に直接見せ又は聞かせることを目的として上演し、又は演奏する権利」です(著作権法22条)。そのため、教師や生徒の演奏行為について、音楽教室が演奏権を侵害しているというためには、

  1. レッスンにおける演奏は(教師や生徒ではなく)音楽教室によるものであり、
  2. 「公衆に直接(中略)聞かせることを目的として」いる

といえることが必要です。訴訟では、ここが大きな争点になりました。

 実は、この2つの問題はリンクしていて、もし、教師や生徒の演奏が音楽教室によるものだと認められれば、その演奏は、音楽教室の不特定または多数の生徒、つまり、「公衆」に「直接」聞かせていることにもなり得ます。そのため、JASRACは、教師の演奏も生徒の演奏も法的には音楽教室の演奏だ、との主張をしていました。
 この訴訟には多岐にわたる争点があるのですが、本記事では、最終的に最高裁が取り上げた、「生徒の演奏は、音楽教室の演奏なのか」という問題を追ってみたいと思います。

カラオケ法理とは

カラオケ法理の誕生(クラブキャッツアイ事件)

 上述のとおり、この問題の背景には、クラブキャッツアイ事件以来のカラオケ法理があります。

⚫︎クラブキャッツアイ事件最高裁(三小)昭和63年3月15日判決・民集42巻3号199頁)
カラオケ伴奏による客の歌唱につきカラオケ装置を設置したスナック等の経営者が演奏権侵害による不法行為責任を負うとされた事例

 クラブキャッツアイ事件は、JASRACが、やはり演奏権侵害を理由に、カラオケスナックを訴えた事件なのですが、当時の著作権法には、JASRACの請求を認容する上で障害となる法制上の問題がありました。この障害を克服したのが、「カラオケ法理」です。

 カラオケ法理とはどのようなものだったのか。現在では考えられないことですが、明治32年に制定された旧著作権法は、適法な録音を「興業又ハ放送ノ用ニ供スルコト」には演奏権が及ばないこととしていたため、店舗等でレコードなどの音源からBGMを流すのは自由でした。この規定は、昭和45年(1970年)の現行著作権法制定で削除されたものの、旧著作権法の上記規定は「なお効力を有する」との経過措置が設けられました(著作権法附則14条)。この経過措置は、国際的な批判を浴びながらも、平成11年(1999年)に至るまで存続します。クラブキャッツアイ事件当時は、まだこの経過措置が残り、店内で録音音源から音楽を流すのは自由だったわけです。

 ただ、喫茶店やレストランでBGMが流れているのと、カラオケスナックで客や店員がカラオケを歌っているのとでは、楽曲の利用形態が異なります。旧著作権法は明治の法律で、経過措置が設けられたのも昭和45年(1970年)ですから、BGMのように環境音として音楽を流すことは想定していても、昭和末期の飲食店がカラオケで客を集め、利益を得るような状況など想定していません。JASRACが、「カラオケで儲けることは経過措置の想定を超えるから、楽曲の使用料を支払うべきではないか」と考えるのももっともなことでした。

 では、録音音源の再生を適法とした経過措置をいかに克服するのか。JASRACが目を付けたのは、カラオケ音源の再生ではなく、客や店員による生の歌唱でした。経過措置は録音された音源に適用されるものなので、カラオケ音源の再生には適用されても、生の歌唱は対象外で、経過措置によって適法化されないからです。

 もっとも、生で歌っているのは、「店」ではなく、客や店員です。JASRACの目的は、店に契約させて使用料を徴収することなので、客や店員を訴えても仕方ありません。また、非営利・無報酬で歌っている客については、そもそも演奏権侵害が成立しません(著作権法38条1項)。
 そこで、JASRACは、あくまで店側を訴えつつも、「著作権法的に見ると、客や店員の歌唱行為は、店による歌唱行為と同視できる」と主張しました。要するに、実際に歌っているのは客や店員であっても、「店が歌っていることにしてしまえ」という発想です。

 もし、このロジックが通用するなら、歌唱が生である以上経過措置では適法化されず、また、店がやることは営利目的なので、非営利・無報酬を理由に適法化されることもありません。その結果、店は演奏権を侵害していることになるので、JASRACから許諾を得て使用料を支払わなければならない、という結論になるわけです。

 「店が歌っていることにしてしまえ」とは一見乱暴なロジックですが、最高裁は、以下のように述べ、店側が歌唱を「管理」し、またその結果店の雰囲気づくりをして「利益」を上げていることを根拠に、このロジックを採用しました。カラオケ法理の誕生です。

客やホステス等の歌唱が公衆たる他の客に直接聞かせることを目的とするものであること(著作権法22条参照)は明らかであり、客のみが歌唱する場合でも、客は、上告人らと無関係に歌唱しているわけではなく、上告人らの従業員による歌唱の勧誘、上告人らの備え置いたカラオケテープの範囲内での選曲、上告人らの設置したカラオケ装置の従業員による操作を通じて、上告人らの管理のもとに歌唱しているものと解され、他方、上告人らは、客の歌唱をも店の営業政策の一環として取り入れ、これを利用していわゆるカラオケスナツクとしての雰囲気を醸成し、かかる雰囲気を好む客の来集を図つて営業上の利益を増大させることを意図していたというべきであつて、前記のような客による歌唱も、著作権法上の規律の観点からは上告人らによる歌唱と同視しうるものであるからである。

 「店が歌っていることにしてしまえ」をもう少し穏当に表現すると、カラオケ法理は、ある人の著作物の利用行為を、規範的観点から別の人の利用行為と見ることによって、物理的には利用行為をしていない人に著作権侵害の責任を問うことを可能にする法理、つまり、著作権の侵害主体性を規範的に判断する法理といえます。そして、その適用要件として、「管理」と「利益」の2点を求めた、というのが、クラブキャッツアイ事件判決なわけです。明治のBGMと昭和のカラオケは「管理」と「利益」によって差別化された、ということかもしれません。

カラオケ法理の拡大(ファイルローグ事件、MYUTA事件、まねきTV事件、ロクラクII事件ほか)

 明治と昭和の時代背景の差を克服したカラオケ法理でしたが、その後、世の中は平成に移ります。最高裁は、平成に入ってからも、カラオケ法理を前提に、カラオケ設備をリースした業者にも共同不法行為の責任を負わせるなど(ビデオメイツ事件・最高裁(二小)平成13年3月2日判決・民集55巻2号185頁)、クラブキャッツアイ事件判決の考え方を踏襲ないし拡張しており、下級審でも、カラオケ法理を基礎に通信カラオケリース業者の責任を認めた裁判例(ヒットワン事件・大阪地裁平成15年2月13日判決)が現れていました。

 しかし、カラオケ法理が本当に脚光を浴びたのは、この法理が、インターネット等新たな技術の登場に伴う著作権侵害への対抗策となってからです。昭和のカラオケスナックで誕生したカラオケ法理が、デジタルとネットワークの世界での複製権(著作権法21条)や公衆送信権(同法23条1項)の侵害にも適用され始めたのです。

 その幕開けは、ファイルローグ事件でした。

⚫︎ファイルローグ事件(東京地裁平成15年1月29日(中間判決)東京高裁平成17年3月31日判決
中央サーバを置くタイプのP2Pファイル交換サービス「ファイルローグ」において、実際に楽曲を交換していた利用者ではなく、サービスの運営会社が侵害行為主体であるとして訴えられ、公衆送信権侵害が認められた事例

 当時、類似案件として米国のNapster事件が話題になっていたこともあり、ファイルローグ事件も注目されましたが、我が国の裁判所は、地裁・高裁とも、カラオケ法理に依拠し、サービス運営者による公衆送信権侵害を認めました。「サービス運営者が楽曲データを送信していることにしてしまえ」というロジックが認められたのです。

 その後、インターネット上のデータの複製・送信主体をめぐっては、以下のような耳目を集めた判決が現れています。特に、まねきTV事件やロクラクII事件では、公衆送信権ないし複製権の侵害を否定した高裁の判断を最高裁が覆したため、大きな話題になりました。

  • MYUTA事件東京地裁平成19年5月25日判決
    利用者が保有するCD等の楽曲を保存するとともに、自身の携帯電話に転送することができるストレージサービスの提供者が、公衆送信の主体と解された事例

  • まねきTV事件最高裁(三小)平成23年1月18日判決・民集65巻1号121頁)
    日本の放送番組を親機で受信し、海外などの子機に転送する装置のうち、親機を利用者から預かり、管理することで、利用者が海外から日本の放送番組を視聴することを可能にするサービスの提供者が、公衆送信の主体と解された事例

  • ロクラクII事件最高裁(一小)平成23年1月20日判決・民集65巻1号399頁)
    日本国内の親機で録画した放送番組を海外等の子機に複製し、視聴できる装置を販売し、また、親機の管理をすることで利用者が海外から日本の放送番組を視聴することを可能にするサービスの提供者が、複製の主体と解された事例

 MYUTA事件まねきTV事件では、個別の利用者の行為を見ると、自分のデバイスから自分のデバイスにデータを送信しているだけですから、「公衆」への送信に当たらず、著作権侵害になりません。しかし、判決は、データの送信をしているのは、それを可能にするためにデバイスを管理しているサービスの提供者であるとし、公衆送信権侵害を肯定しました。サービス運営者がデータ送信の主体であれば、不特定多数の利用者に送信していることになるため、「公衆」への送信に該当する、というわけです。

 ロクラクⅡ事件でも、海外からのテレビ番組の視聴を可能にするサービスが違法とされました。もっとも、まねきTV事件とは異なり、日本国内の親機でいったん録画した放送番組を子機に複製する仕組みであったため、論点は複製権侵害でした。本来、個人が家庭内で視聴するためにテレビ番組を録画して複製するような「私的利用目的の複製」は自由とされており(著作権法30条1項)、高裁はこのサービスを適法と判断したのですが、最高裁は、複製主体は、国内で親機を管理しているサービス提供者だ、というロジックによって、複製権侵害を認めました。私的利用目的の複製は著作物の個人的な使用に認められるもので、事業活動には適用されないからです。 

カラオケ法理が埋める法の穴

 これらの判決に共通しているのは、個々の送信行為や複製行為を「束ねる」サービスや製品の提供行為を捉えて著作権侵害を構成している、ということです。その実質的意味は、著作権者の利益を損なう行為を根本から断つ、つまり、個々の複製や送信行為ではなく、それを可能にするためのインフラとなるサービスの提供を著作権侵害とすることにより、個別の利用行為をまとめて封じる、というところにあります。

 昭和の時代ならば、音楽や映像、文学や美術といった作品を消費者に届けることができるのは、作品をレコード、テープ、書籍、そして、誕生間もないCDなどのメディアに複製し、流通させることができる事業者だけでした。公衆送信も、放送局など、相応の設備を持つ事業者でなければできないことでした。要するに、この時代に、商用のコンテンツについて権利者の利益を深刻に脅かすことができたのは事業者だけで、だからこそ、著作権法は、私的利用目的の複製や、「公衆」以外(特定少数者)への送信といった、閉鎖的な領域での複製・送信行為におおらかな制度でいられたともいえます。

 しかし、デジタル技術は、誰もが家庭内で作品を複製することを可能にし、インターネットは、個人がメディアなしに瞬時に世界中にデジタル情報を伝達することを可能にしました。平成から令和にかけては、情報の流通過程が劇的に変容し、かつて限られた事業者にしかできなかったことが、誰でも手軽にできるようになった、つまり、一般市民が、潜在的に、著作権者に深刻な経済的ダメージをもたらし得る存在となった時代なのです。

 そのような状況において、個々の利用行為に対し、大きな費用と時間をかけて法的対応をするのは現実的ではありません。デジタル化、ネットワーク化が進んだ現代社会で実効的に著作権を保護しようとしたとき、権利者は、必然的に、利用行為を束ね、大規模化するサービス等の提供者、つまり、複製や送信のためのインフラ提供者を被告とするしかなくなりました。現代のカラオケ法理は、「公衆」要件や私的複製目的の例外といった、昭和の技術を前提とした法制上の限界を克服し、インフラ提供者への攻撃を可能にするためのツールとなったのです。

カラオケ法理に対する批判

 このような状況は、現在の著作権法が、インフラ提供者という新たなターゲットを捉えることを前提に設計されていない、要するに、現代の技術革新にキャッチアップできていない、ということを意味します。そこを埋め合わせる、という意味では、明治の枠組みで昭和の「技術革新」であったカラオケを捕捉したカラオケ法理は親和性があります。

 他方、カラオケ法理は、侵害行為の主体のすり替えによって、形式的には存在しないはずの著作権侵害を作り出すことから始まった理屈ですから、その過程では、形式的には適法なはずの行為を違法にするプロセスが生じます。この点、クラブキャッツアイ事件では、カラオケが本来の法の趣旨から逸脱していたことは理解しやすいのですが、MYUTA事件、まねきTV事件、ロクラクII事件にみられるように、自分のCDから自分の携帯電話への楽曲の転送や、海外での視聴のためのテレビ番組の個別の複製・送信をサポートするサービスが本当に「悪」か、権利者に具体的損失はあるのか、ということを考えると、なかなか悩ましい問題です。そして、それを「悪」にできるカラオケ法理には、サービス提供者から見たとき、本来適法な行為をより便利に実現するためのサービスを提供すると違法になるかもしれない、という怖さがあるわけです。

 このような疑義を生むカラオケ法理については、当初から、乱暴すぎるのではないか、という批判がありました。クラブキャッツアイ事件判決でも、4人の裁判官のうち、伊藤正己裁判官は、著作権侵害を認める結論に賛成しつつ、カラオケ法理を根拠とすることについては、「いささか不自然であり、無理な解釈ではないかと考える」、「擬制的にすぎて相当でないといわざるをえない」との意見を付しています。

 実は、クラブキャッツアイ事件で問題になった経過措置には例外があり、その1つとして、「客に音楽を鑑賞させるための特別の設備を設けているもの」については適用がないこととされていました(著作権法施行令附則3条1号)。カラオケ設備は、客が歌うためのもので、「鑑賞」のためのものではないので、文言に忠実に解釈すればこの例外には該当しませんが、伊藤裁判官は、そこをちょっと無理して当てはめ、経過措置の適用を除外することで著作権侵害を問えばよい、と考えていたのです。要するに、「客の歌唱も店が歌っていることにしてしまえ」(カラオケ法理)というのと、「カラオケ設備も『鑑賞』のための設備にしてしまえ」(経過措置の適用除外)というのと、どちらがマシかを考えたとき、伊藤裁判官は後者を選択したのでしょう。

 時代が平成にくだって、カラオケ法理の適用範囲がデジタル技術とネット空間に拡大されると、その法令上の根拠の弱さや適用範囲の不明確さ、適用された場合のインパクトの大きさといった問題がいっそう指摘されるようになりました。筆者の経験でも、特に2000年代初頭にこれらの判決が現れ始めた頃は、著作物の利用が絡んだ新規サービスの開発をめぐる相談を受けたときに、本当に適法かどうか、何度も迷いました。カラオケ法理の不明確さが、有益なサービスを生むうえで一定の萎縮的効果を生じていたことはたしかだろうと感じるところです。

最高裁による行為類型ごとの規範の定立

 そのような中、2011年(平成23年)1月18日と同月20日に相次いで現れたまねきTV事件やロクラクⅡ事件の最高裁判決では、実は、理由中からクラブキャッツアイ事件判決の引用がなくなっています。これらの判決は、原判決を破棄して著作権侵害を肯定する一方、公衆送信権や複製権の侵害主体性の判断について、具体的な利用行為を念頭に個別の判断をしているのです。もともと演奏権を対象に、カラオケスナックにおける経過措置の回避を目的としたクラブキャッツアイ事件判決の「管理」と「利益」の枠組みを、インターネット上の複製や公衆送信にそのまま当てはめるのは無理、ということでしょう。クラブキャッツアイ事件判決そのものがそうですが、元来カラオケ法理は、「法理」というより、行為主体性に関する事例判断の集合体で、さまざまな類型の著作権侵害行為について「管理」と「利益」だけで勝負をつけるのは荷が重かったのです。

 具体的に見ると、まず、まねきTV事件判決は、自動公衆送信における行為主体性の判断について以下のとおり述べ、「装置が受信者からの求めに応じ情報を自動的に送信することができる状態を作り出す行為を行う者」という端的な判断手法により、テレビ番組を受信してこれを送信するベースステーションを管理していたサービス提供者が送信主体であると判断しています。

自動公衆送信が、当該装置に入力される情報を受信者からの求めに応じ自動的に送信する機能を有する装置の使用を前提としていることに鑑みると、その主体は、当該装置が受信者からの求めに応じ情報を自動的に送信することができる状態を作り出す行為を行う者と解するのが相当であり、当該装置が公衆の用に供されている電気通信回線に接続しており、これに継続的に情報が入力されている場合には、当該装置に情報を入力する者が送信の主体であると解するのが相当である。

 また、ロクラクⅡ事件判決は、以下のとおり、複製における行為主体性の判断について、「複製の対象、方法、複製への関与の内容、程度等の諸要素」に基づく総合判断のアプローチを採用しました。具体的な判断においては、クラブキャッツアイ事件判決を彷彿とさせる「管理、支配」という言葉を用いてはいるものの、直接的には、サービス提供者が「複製の実現における枢要な行為」をしていたことを根拠に、行為主体性を認めています。

複製の主体の判断に当たっては、複製の対象、方法、複製への関与の内容、程度等の諸要素を考慮して、誰が当該著作物の複製をしているといえるかを判断するのが相当であるところ、上記の場合、サービス提供者は、単に複製を容易にするための環境等を整備しているにとどまらず、その管理、支配下において、放送を受信して複製機器に対して放送番組等に係る情報を入力するという、複製機器を用いた放送番組等の複製の実現における枢要な行為をしており、複製時におけるサービス提供者の上記各行為がなければ、当該サービスの利用者が録画の指示をしても、放送番組等の複製をすることはおよそ不可能なのであり、サービス提供者を複製の主体というに十分である。

 ロクラクⅡ事件判決の総合判断のアプローチについては、基準が抽象的に過ぎるとの批判もあるものの、これら2件の判決は、「管理」と「利益」で侵害行為主体をすり替えるという発想ではなく、むしろ、サービス提供者の行為を実質的に観察して、より直裁に誰が公衆送信や複製をしているのかを判断しているものと考えられます。この意味において、両判決は、「擬制的にすぎる」と評されたクラブキャッツアイ事件判決からの脱却を図るものといえるでしょう。

古典的カラオケ法理からの脱却

 以上見てきたとおり、カラオケ法理は、カラオケスナックでの演奏権の問題から始まって、デジタル時代、インターネット時代の公衆送信権と複製権に適用が拡大されましたが、公衆送信行為と複製行為については、カラオケ法理の延長上にありつつも、一歩先に古典的カラオケ法理を脱却していました。あるいは、カラオケ法理は、より端的かつ個別的な侵害主体性の判断手法に進化したともいえます。

 カラオケ法理の紹介の最後に、ロクラクⅡ事件の判決における金築誠志裁判官の印象的な補足意見を引用しておきたいと思います。

「カラオケ法理」は、法概念の規範的解釈として、一般的な法解釈の手法の一つにすぎないのであり、これを何か特殊な法理論であるかのようにみなすのは適当ではない。したがって、考慮されるべき要素も、行為類型によって変わり得るのであり、行為に対する管理、支配と利益の帰属という二要素を固定的なものと考えるべきではない。この二要素は、社会的、経済的な観点から行為の主体を検討する際に、多くの場合、重要な要素であるというにとどまる。にもかかわらず、固定的な要件を持つ独自の法理であるかのように一人歩きしているとすれば、その点にこそ、「カラオケ法理」について反省すべきところがあるのではないかと思う。

音楽教室事件判決の判旨 ―生徒の演奏は、音楽教室の演奏なのか?

 長い長い前置きを終えて、音楽教室事件判決に戻ります。
 クラブキャッツアイ事件における演奏権侵害の行為主体性の判断から始まったカラオケ法理は、その射程がインターネットを用いた公衆送信や複製の主体の判断に拡大したものの、それらについて、最高裁は、一足早く、「管理」と「利益」に依拠する古典的カラオケ法理からの卒業を宣言していました。そのような中、クラブキャッツアイ事件判決から34年を経て、再び演奏権の行為主体の問題が正面から議論されたのが、音楽教室事件判決ということになります。

東京地裁「生徒の演奏も音楽教室が演奏主体である」

 生徒の演奏は、音楽教室の演奏なのか。この問題、元祖カラオケ法理の「客の歌唱も店が歌っていることにしてしまえ」というロジックによれば、「生徒の演奏も音楽教室が演奏していることにしてしまえ」が成り立ちそうなものです。実際、第一審の東京地裁判決は、クラブキャッツアイ事件判決とロクラクⅡ事件判決の双方を引用し、「演奏の実現にとって枢要な行為がその管理・支配下において行われているか否か」を判断基準としたうえで、生徒の演奏も音楽教室が演奏主体であると判断しました。

知財高裁・最高裁「生徒の演奏はあくまで生徒の演奏である」

 しかし、知財高裁は、生徒の演奏について、東京地裁の判断を覆し、最高裁も、基本的に同様の考え方を示しました。生徒の演奏に関しては、音楽教室は著作物の利用主体ではない、つまり、生徒の演奏はあくまで生徒の演奏であると判断したのです。 なお、生徒の演奏以外については、知財高裁も、東京地裁の判断を維持しています。

最高裁による総合判断アプローチ ― 古典的カラオケ法理からの卒業

 判決の内容を見ると、最高裁判決は、生徒の演奏について、以下のように述べています。

演奏の形態による音楽著作物の利用主体の判断に当たっては、演奏の目的及び態様、演奏への関与の内容及び程度等の諸般の事情を考慮するのが相当である。被上告人らの運営する音楽教室のレッスンにおける生徒の演奏は、教師から演奏技術等の教授を受けてこれを習得し、その向上を図ることを目的として行われるのであって、課題曲を演奏するのは、そのための手段にすぎない。そして、生徒の演奏は、教師の行為を要することなく生徒の行為のみにより成り立つものであり、上記の目的との関係では、生徒の演奏こそが重要な意味を持つのであって、教師による伴奏や各種録音物の再生が行われたとしても、これらは、生徒の演奏を補助するものにとどまる。また、教師は、課題曲を選定し、生徒に対してその演奏につき指示・指導をするが、これらは、生徒が上記の目的を達成することができるように助力するものにすぎず、生徒は、飽くまで任意かつ自主的に演奏するのであって、演奏することを強制されるものではない。なお、被上告人らは生徒から受講料の支払を受けているが、受講料は、演奏技術等の教授を受けることの対価であり、課題曲を演奏すること自体の対価ということはできない。
これらの事情を総合考慮すると、レッスンにおける生徒の演奏に関し、被上告人らが本件管理著作物の利用主体であるということはできない。

 このように、最高裁は、「演奏の目的及び態様、演奏への関与の内容及び程度等の諸般の事情」を考慮して演奏主体性を判断すべきものとしており、この点で、ロクラクⅡ事件判決と同様の総合判断アプローチを採用しています。そこには、もはや、クラブキャッツアイ事件判決への言及も、「管理」や「利益」といった要件によるすり替えのアプローチもなく、それらの事項は、総合判断の中で参酌される具体的考慮要素でしかありません。 最高裁は、演奏権についても、かつて伊藤正己裁判官が「擬制的にすぎて相当でない」と評した解釈手法からの卒業を宣言したものといえそうです。

 なお、最高裁判所は、生徒の演奏も音楽教室による楽曲利用と見るべきだ、と主張するJASRACの上告受理申立てを受理したうえで、これを棄却しました。他方、音楽教室側の不服申立てについては、上告を受け付けずに原判決が確定しています。そのため、知財高裁の判決がそのまま確定することになり、この訴訟の最終的な結論としては、音楽教室の使用料支払義務そのものは認められる一方、生徒による演奏分は対象から除外され、範囲が限定された、ということになります。

本判決を踏まえた企業実務のポイント

 音楽教室事件判決により、「管理」と「利益」に依拠した古典的カラオケ法理は、演奏主体性についてのより一般的な判断手法に書き換えられました。とはいえ、同判決が採用した総合判断のアプローチは、要件ではなく判断枠組みを示すものですので、どのような場合に違法になるかを予見することはいまだ困難が伴います。これが、今後著作物の使用を伴うサービスを開発する企業にとっての課題になるでしょう。

 では、どうやってその予見をするのか。筆者にこの問題の知見があるわけではありませんが、重要なポイントは、依然として、「管理」であろうと感じます。

 MYUTA事件、まねきTV事件、ロクラクII事件では、具体的な送信や複製は装置によって行われるところ、その装置はサービス提供者の管理下にあります。装置の操作は利用者がしますが、機械が行う送信や複製についての個別の指示にすぎず、違法ウェブサイトにアクセスするのと変わらない(だから、悪いのはウェブサイト運営者)、ともいえます。つまり、送信や複製は多分に機械がやることなので、その管理をしているのは誰なのか、ということを考えると、物理的に管理しているサービス提供者だ、という結論になりやすいと思うのです。

 これに対し、音楽教室事件判決における生徒の演奏は、音源の再生などの機械がやることとは異なり、本質的に意思や感情を持った人間が行うことです。発表会などはともかく、レッスンは(それ自体は運営者によって管理されているとしても)、生徒が練習として行う演奏にまで「管理」を及ぼすものとは必ずしもいえないように思われます。生徒は、管理される機械ではない―ここが結論の分かれる背景の1つとなっているのではないでしょうか。

 このようにして見ると、昭和の申し子であったカラオケ法理は、デジタルとネットワークの時代における必要性と批判の狭間の弥縫策として平成の著作権法を支えた後、再びアナログな演奏の問題に回帰し、令和においても、「音楽教室法理」の中にひっそりと息づいていくのかもしれません。

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