アジャイル・ガバナンス実現のために法律家は「賢い失敗」を許容せよ – 旭化成 髙山副社長・経産省 羽深弁護士
法務部
テクノロジーの急速な発展に伴ってイノベーションや社会構造の大きな変化が起きる昨今、既存のルールや制度のあり方を問い直すべき時期に来ている。これからの時代には、多様なステークホルダーが迅速にルールや制度をアップデートし続ける「アジャイル・ガバナンス」の実践が必要であるとの考え方のもと、経済産業省は2021年7月、コーポレートガバナンス、法規制、インフラ、市場、社会規範といったさまざまなガバナンスメカニズムの在り方を示した「GOVERNANCE INNOVATION Ver.2: アジャイル・ガバナンスのデザインと実装に向けて」報告書(以下、報告書)を公表した。
本稿では、旭化成 代表取締役兼副社長執行役員 髙山 茂樹氏と、報告書の作成を主担当した経済産業省 商務情報政策局 情報経済課 ガバナンス戦略国際調整官 羽深 宏樹弁護士との対談から、企業におけるアジャイル・ガバナンスの重要性、そしてその実現のために法務担当者や法律専門家が果たすべき役割について紐解いていきたい。
髙山 茂樹(たかやま・しげき)
旭化成株式会社 代表取締役 兼 副社長執行役員 技術機能部門統括
1980年旭化成工業株式会社(現 旭化成株式会社)入社。研究、製造等に長く従事。旭化成イーマテリアルズ株式会社代表取締役社長 兼 社長執行役員、ポリポア・インターナショナルCEO等を経て2019年より現職。DXによるイノベーション創出の推進にあたっている。
羽深 宏樹(はぶか・ひろき)
経済産業省 商務情報政策局 情報経済課 ガバナンス戦略国際調整官
経済産業省において、デジタル時代のガバナンス・システムの設計、デジタルプラットフォームに関する諸政策の立案、国際的なデータガバナンスに関する検討等を行っている。2020年、世界経済フォーラムGlobal Future Council on Agile GovernanceおよびApoliticalによって、「公共部門を変革する世界で最も影響力のある50人」に選出される。東京大学法学部卒、東京大学法科大学院修了、スタンフォード大学ロースクール修了。弁護士(日本・ニューヨーク州)、東京大学公共政策大学院非常勤講師。
既存のガバナンスの考え方では変化に対応できない
報告書はどのような問題意識から作られたものなのでしょうか。
羽深弁護士:
世界中でデジタル技術による大きな社会変化が起こるなか、残念ながら日本では最新技術の実装があまり進んでいません。我々は、この原因の1つにガバナンスの問題があると考えました。
ここでいうガバナンスとは、コーポレートガバナンスや法制度だけでなく、市場や民主主義システムといったさまざまな制度や仕組みを含みます。これらが古い時代のままの姿で残ってしまっているため、新しいテクノロジーの実装やイノベーションが起こりづらくなっていることが、問題意識としてありました。
そもそも、ある出来事に既存のルールを適用しなければならないという考え方は、ルールが作られたときの時代背景と現在の時代背景が同じであることが前提となっています。しかし昨今の社会状況の激しい変化を考えると、そうした理屈はもはや成立しません。
足元をしっかりと見つめ、制度や仕組みを迅速にアップデートしていくことが、今の時代には求められています。
改めて報告書の趣旨についてご説明いただけますか。
羽深弁護士:
AIやIoT、ビッグデータなど、サイバー空間とフィジカル空間を高度に融合させたサイバー・フィジカルシステムのなかでは、日々変化が起こるため予見可能性が低くなります。さらに実際のサイバー空間では、これらのシステムが国外のものも含めて複雑に接続され絡み合っているので、コントロール不可能な事柄すなわち「不確実性」の領域が極めて大きくなっていきます。
その一方で、我々が目指すべきゴールや価値観もまた、多様化・複雑化しています。企業も顧客や株主、債権者といった目先のステークホルダーだけを見ていればよかった時代は終わりました。SDGsをはじめとするさまざまな社会課題も解決できる企業であることを積極的に示さなければ、市場において評価されない時代になりつつあります。
報告書ではガバナンスを、端的にいえば「社会においてゴールを達成するための仕組み作りおよびその運用」と捉えています。そのうえで、絶えず変化する社会において多様化・複雑化するゴールを追求するにあたり、既存のガバナンスの考え方では対応が著しく困難になっているのではないか、と問題提起しています。
そうした問題の解決策が、報告書のタイトルにある「アジャイル・ガバナンス」ということですね。
羽深弁護士:
アジャイル・ガバナンスには、大きく分けて2本の柱があります。
1つ目は、「マルチステークホルダー・アプローチ」です。従来は、“お上” が決めたルールを全員が守っていれば社会全体で最適な状態が達成されるという想定が成立していました。しかしこれからは、政府だけでなく、企業、個人、コミュニティを含めたそれぞれのアクターがガバナンスの担い手となり、なおかつそこに他のステークホルダーも参加できるようにすべきというものです。
2つ目は、「アジャイル・ガバナンス・サイクル」です。以下の図の左側にある二重サイクルをご覧ください。
従来からある似た概念としてPDCA(Plan-Do-Check-Act)の考え方がありますが、PDCAは一度決めたプランを守っていくことが前提にあります。アジャイル・ガバナンス・サイクルは、Planの土台となる環境やゴールについても常にアップデートを続けながら、対外的に透明性を持ってアカウンタビリティを果たしていくモデルです。
そして、それぞれのアクターが実施したこのサイクルを皆でつないでいくという考え方が、アジャイル・ガバナンスの全体像です(以下の図の右側)。
アジャイル・ガバナンスの全体像
アジャイル・ガバナンスの考え方のうち、企業が特に注目すべきポイントはどこにあるでしょうか。
羽深弁護士:
報告書では、まさに社会活動の中心となっている企業が主体的にガバナンスをリードしていくことの重要性について触れています。
サステナビリティの観点からも、幅広いステークホルダーに対するガバナンスを重視すべきという認識が高まるなか、各企業における取り組みの羅針盤として報告書をご覧いただけるとよいと思っています。
致命的ではない失敗を受け入れる
髙山さんの立場から見て、報告書の内容はいかがでしたか。
髙山氏:
報告書には、企業としてDXに力を入れて取り組むうえで、目からウロコともいえる考え方がふんだんに盛り込まれています。
私はこれまで、DXとは、企業が先導する形でデジタルを活用し世の中を変えていくものだと考えていました。しかしこの報告書を読み、そして先日、羽深弁護士のご講演を聞く機会を得て、企業の取り組みを受け入れてくれる社会がなければDXは実現できないものなのだと痛感しました。
そして、我々の取り組みを社会に理解していただくために重要なのが、報告書のなかでも重要視されている「ゴール」です。
当社では従来、顧客や投資家をステークホルダーと考えて価値観を構築してきました。しかし現在では、未来の子どもたちというまだ見たことのない方々までもステークホルダーに含めて考えています。結果として、目指すべきゴールも大きく変わってくるでしょう。
特にDXでは、日々変化するゴールやステークホルダーを意識していくことが重要です。たとえば、さまざまな議論が行われているデータガバナンスに関しては、これまでは社内だけで考えていれば十分でした。しかし、DXに取り組むにあたって、他社や社会とデータを共有・運用していくことを考えると、自社だけでは手に負えなくなってしまいます。
我々のような製造業でもサイバーの世界で価値提供していくことを目指さざるを得ない状況において、報告書には、企業がDXに取り組むうえでの教科書となるような内容がまとめられていると感じました。
DXに取り組まれるなかで、課題だと感じられている点はどこにありますか。
髙山氏:
失敗やリスクをどこまで許容するかという点です。
我々製造業では、絶対にやってはいけない失敗が山ほどあります。その考え方と、失敗しながら新しいことに取り組むというアジャイルの考え方は、一見両立しません。
この問題を考えるときにポイントとなるのが、製造業における品質問題の予防策として有効な「エラープルーフ化の原理」です。これは次の5つの項目から構成されています。
- 作業や注意を不要にする
- 人が作業しなくてもよいようにする
- 作業を人が行いやすいものにする
- エラーに気づくようにする
- 影響が致命的なものにならないようにする
これまで1〜4はマニュアルや教育、IT化で対応できていましたが、5番目の原理に対しては、まだ議論の余地があります。
「影響が致命的なものにならないようにする」という原理を実現するには、失敗を「撲滅すべき失敗」と「推進すべき失敗(=賢い失敗)」に分ける必要があります。
撲滅すべき失敗と推進すべき失敗
撲滅すべき失敗 | 推進すべき失敗 | ||
---|---|---|---|
回避可能な失敗 | 複雑な失敗 | 賢い失敗 | |
定義 | 既知のプロセスから逸脱し、望まない結果が起きる | 出来事や行動がかっつてない※特異な組み合わさり方をして、望まない結果が起きる | 新たなことを始めて、望まないことが起きる |
共通する原因 | 行動・スキル・注意の欠如 | 慣れた状況に複雑さ・多様性・かつてない要因が加わる | 不確実性。試み。リスクを取ること |
特徴を示す表現 | プロセスからの逸脱 | システムの破綻 | うまくいかなかった試み |
典型的な コンテクスト |
製造業の生産ライン 品質不正 |
原子力発電所 NASAのシャトル計画 病院での医療 |
新製品設計 事業モデル開発 |
生産的な対応 | 教育する プロセスを改善する システムを再デザインする TQM |
多角的な失敗分析を行う 対処すべきリスク要因を特定する システムを改善する |
影響を突き止める結果分析を行う 次のステップまたは追加の試みをデザインする |
出所:エイミー・C・エドモンドソン(野津智子訳)『恐れのない組織―「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』(英治出版、2021)203頁
そしてこの「賢い失敗」こそ、アジャイル・ガバナンスの世界を有効にしていくものです。イノベーションのためには、何が何でも回避しなければいけない致命的な失敗と賢い失敗とを切り分け、上手くマネジメントしていくことが重要です。報告書にも、致命的ではない失敗を受け入れるべきという考え方が盛り込まれていますね。
羽深弁護士:
不確実性の高い時代においては、失敗は起こるものとして考えなければ、イノベーションは起こりません。
失敗を受け入れるうえでは責任の所在が問題になりますが、そもそも「本当に誰かを責める必要があるのか?」という点から疑う必要があります。問題が発生した際に直ちに責任者を特定して処罰するというモデルでは、誰も新しいことをやりたがらないだけでなく、情報を共有するモチベーションも湧きません。
処罰という仕組みは、予測できる事柄に関して注意することによって問題を抑止することが可能な場合に機能するもので、誰にも予測できないようなことに対しては通用しません。重要なのは、二度と同じような間違いを起こさないよう、きちんと失敗の原因を追求し、改善の方向性を示すことです。そして、そのためには当事者が情報をすべて公開したくなるようにインセンティブの設計を行うことがポイントになります。
報告書の中では、失敗という結果のみに着目するのではなく、平時のガバナンスのあり方や事故発生時の原因究明への協力といった、事前と事後のガバナンスに注目して処罰の有無を決める仕組みを提案しています。
ゴールを見据えて仕組みを大胆にアップデートする
DXに取り組んでいくにあたり、法務機能に期待されることはありますか。
髙山氏:
当社でも、世界情勢や社会の潮流を見ながら総合的に判断しなければならない場面が増えてきており、法律だけ守っていればよい時代ではなくなってきていることを実感しています。
たとえば、当社では現在、コンビナートの配管の腐食に関して他社と連携し、各社の配管データを解析して工場の管理に役立てるという取り組みを主導しています。
各社のデータを扱うにあたっては、公開範囲や秘密保持、管理方法など多くのことが問題になりますが、DXを推し進める際にも、こうした課題があちこちで発生すると思います。
法務部には、このような場面で、政府のガイドラインや各種法令を参照したうえで、何が可能なのかという点を整理してもらいたいと考えています。できないことややってはいけないことではなく、これならできる、ここからここまでは自由に動いてよい範囲だということを、経営や事業部に対して示してほしいのです。
今の社会課題は、一企業だけでは解決できるものではありません。他社や政府も巻き込んで解決策を考えていく必要があります。さまざまなステークホルダーとの協力を前提として、許容されるリスクレベルを専門家の視点からきちんと提言していただきたいというのが、我々が法務に期待するところです。
DXやそれに向けたアジャイル・ガバナンスを実践するにあたって、法律の専門家にはどのようなマインドセットが必要になるでしょうか。
髙山氏:
報告書にあるとおり、やはりゴール設定だと思います。そして、そのために「サイバー空間での人間の幸福とは何か?」ということを臆面もなく語ってほしいですね。文化は皆が信じているから成り立つものです。だからこそ、人間にとって最も普遍的な幸せや自由というものをまずは信じられるように、法律の専門家の方々も含めて議論していけるとよいと思っています。
羽深弁護士:
誰も幸せにならないルールを頑なに守っているというケースはよくありますよね。しかし、ルールの元をたどっていけば、そこには、社会全体の幸福や自由を実現するためという目的があるはずです。我々は、そうした目的に立ち返って、既存のルールを批判的に検討し、アップデートしていかなければなりません。
これは、政府や企業という「仕組み」についても同様です。突き詰めると、ルールも政府も企業も、よりよい社会を作っていくために我々が生み出した観念上のツールにすぎず、それらが社会で果たすべき役割というのは絶対的なものではないのです。
ですので、既存のさまざまな仕組みに合わせて社会をコントロールしようとするのではなく、社会にとって良いことを実現するために既存の仕組みを大胆に変えてしまおうという発想が必要です。
企業の方には、自分たちでゴール設定からガバナンス・システムの設計、その評価までを行い、ぜひ対外的に開示していただきたい。“お上” に聞くのではなく、自分たちで堂々と自信を持ってアジャイル・ガバナンスの実現に取り組んでいただきたいです。そうすることで、社会全体からの信頼を勝ち取れるだけでなく、政府として企業をサポートするための方法が明確になっていきます。
逆に、企業のみなさんがアジャイル・ガバナンスの担い手として動いていくうえで、合理的ではない法規制等に直面することがあれば、どんどん要望を投げかけていただけるような体制を、政府としては整えていく必要があると思います。一方通行ではない関係性を構築していけると、社会はもっとよくなっていくと思っています。
(文:周藤 瞳美、写真:弘田 充、取材・編集:BUSINESS LAWYERS 編集部)