法務キャリアの登り方

第3回 商標権・意匠権に悩まされた商社営業マン時代 「生きたもん勝ち」と語る70歳法務パーソンの人生(上)

法務部
宮田 正樹 一般社団法人GBL研究所 理事

目次

  1. 就職することは考えもしなかった学生時代
  2. 商社営業マンとして社会へ
  3. 商標権・意匠権との戦い

日本企業は年々コンプライアンスの意識を高め、健全な企業経営を目指しています。こういった姿勢は、先人たちの働きによって少しずつ企業へ根付いていった結果です。では、先人たちはどのようにして企業法務の世界を形成していったのでしょうか。

今回は、伊藤忠商事株式会社に営業マンとして入社し、紆余曲折を経て法務部員となった宮田 正樹さんに取材しました。宮田さんは終戦から2年後、日本国憲法が施行された1947年に生まれた70歳。現在は、国際的な企業活動における法務面の研究・支援を行う一般社団法人GBL研究所の理事や、二松学舎大学国際政治学研究科で非常勤講師としてご活躍されています。彼が企業で勤めていた頃は日本の「高度成長期」の余韻が残る時代から「バブル期」を経て「失われた20年」という大変動の時代。昭和、平成を駆け抜けた企業人生について、「生きたもん勝ち」と話をしてくれました。

これから宮田さんの半生を3回にわたって振り返っていきます。

就職することは考えもしなかった学生時代

宮田さんが小学校に入学したのは1954年。第二次世界大戦の終戦から、まだ10年も経っていない頃です。日本では自衛隊が発足され、海外ではビキニ環礁でアメリカによる核実験が行われている、そんな時代に、彼が夢見ていた将来はエンジニアでした。

宮田さん
母親が「これからの日本は科学の時代やからあんたはエンジニアになりなさい」とささやいていたこともあって、小さい頃は「将来はエンジニアになる!」と言っていました。中学を卒業するまではそのつもりで、高校に入って物理の授業を受けるのを楽しみにしていたんですよ。ところが、実際に物理の授業が始まったら、先生がチンケなおっさんでね(笑)。頭のてっぺんから声を出すもんで、一声聞いて「もう物理やめや!」と思ってしまい、そこでエンジニアの夢は消えてしまったんです(笑)。きっと先生が違ったら、わたしはエンジニアになっていたはずですよ。

1967年、宮田さんは大阪大学の法学部に入学。この時代はまさに学生運動が盛んな時期で、いわゆる全共闘(全学共闘会議の略。日本の各大学でバリケードストライキを含む実力闘争が行われた際に、学部やセクト(新左翼の各党派)を超えた運動として組織した大学内の連合体)の世代にあたります。

宮田さん
学生時代はまさに全共闘運動のど真ん中で、自分が企業に就職するなんて思っていませんでした。マルキシズム1に影響されていたものですから、当時は資本主義の尖兵たる企業に入るなんて思いもしませんでした、単純なもんで。


1967年に大学に入学しましたが、3年生になった69年には大阪大学も全学バリスト(バリケードを築いての全学ストライキ)でしたから、大学3年はほとんど学校へ行きませんでした。学校へ行っても授業に出るのはたまにでしたから、40歳を過ぎてから「何でもっと勉強しなかったのか」とかなり悔やみました。

そんな中、大学4年の4月あたりに、突然、銀行のリクルーターがドドーッと教室に入り込んで来て青田買い2を始めるんですよ。「就職する奴なんかいるんかいな」と思っていたら、だんだんと周りの学生がいそいそし出すわけです。


わたしも影響を受けて、「これは就職なるものを考えないかんのか」と思いましたが、どこの企業へ面接に行けばよいのかわかりません。「そろばんはできひんし、銀行はあかんな。メーカーもしんどそうやしな」と言っていたら、友達が「商社っちゅうのがあるで」と言うんです。「商社」と言われても、何をしている会社なのか知りませんでした。貿易をしている会社だと聞き、大陸浪人3みたいな人間の集まりかなと思って(笑)、商社を受けに行ったの。それで最初に内定が出たのが伊藤忠だったんです。


根性がなくて流されて就職してしまって、「オレは日和った!」4という想いをずいぶん引きずっていましたね。伊藤忠に入ってからも、社会主義的な考え方がなかなか抜けませんでした。

商社営業マンとして社会へ

1971年に宮田さんは大学を卒業し、伊藤忠商事へ入社。配属されたのは靴の輸出を担当する営業課。入社したばかりの宮田青年は、「会社人」として仕事に臨んでいきました。しかし、その年の8月に早速大きな事件が起こりました。ニクソン・ショックです。

宮田さん
わたしが入社した頃まで外国為替は固定相場制で1ドル360円という時代でした。日本から輸出する靴は、といってもビニールで作った靴やゴム長靴・運動靴といった安物靴ですが、アメリカ・カナダにある伊藤忠の支店が輸入して、アメリカ・カナダ市場に販売していました。そんな中、突然ニクソン・ショックで円が切り上げになったのです。年末には1ドル308円ぐらいになったのかな。要するに、ドル換算すると2割ぐらい値上げしないと採算に合わないことになる。

それまででも採算ギリギリで輸出していたものが2割高くなったら、競争力がなくなって、日本から輸出できなくなります。1年ぐらいは既契約残と三国取引という形で輸出ビジネスを続けていたけれど、それでは利益があんまり取れないんです。そこで、「我々もアメリカ・カナダと同じように台湾・韓国から輸入して日本で売るしかない」ということになりました。

こうして輸出をあきらめ輸入を始めるようになったわけですが、これもすぐに次の壁にぶち当たります。1973年に起こったのが、第一次石油危機(オイルショック)です。

宮田さん
輸入を始めて思いの外たくさんの注文がとれ、韓国・台湾のメーカーでいよいよ靴を作り出した途端にオイルショックになりましてね。石油製品をはじめとし、原材料の値上がりで物価が高騰していたこともあって、メーカーから「値上げしてくれないと作らん」と言われて、仕方なく値上げを受け入れて、お客さんにも「一部負担して欲しい」と値上げを受け入れてもらったのです。

でも、荷物が入ってきた頃には物価がドーンと急落。不況に落ち込んだのです。そうしたら、お客さんが荷物を引き取ってくれない。「契約違反やないですか」と迫ったら、「あんたのとこの方が先に値上げという契約違反をしとるやないか。わたしらは値上げを受けてやったやないか!」と反論されてね。それを言われちゃあ俺も困っちゃうよと(笑)。在庫はお客さんに引き取ってもらえず、そのまま会社に帰ったら上司に怒られる。もうトラウマになるぐらい在庫の重さ・怖さを知りました。

靴は、洋服以上にサイズが多く、サイズが欠品すると価値がなくなるんです。出荷していくと売れるサイズと売れないサイズが出てきて、サイズ切れが生じる。そうなると二束三文になるんです。今でも「在庫がたまってるで、早う処分せえ!」と上司から怒られる夢を見てハッと目が覚めることがあるぐらい、在庫トラウマになりました。はやりすたりのある商品の営業マンは、売れているときは楽しいけれど、最後の処分まで考えると、本当にしんどい思いをするんです。

あとは、不良品の対応も大変でした。不良品が発生すると、倉庫に行ってすべての製品を検品して、磨いたり、のりで貼り付けたりと、そういう作業をよくやりました。日本にくる前の生産段階に現地へ行って、夜明けまでに検品を終わらせるとか。そういう、かなり厳しい労働環境にもさらされていたんですよ。ちっともかっこいい商売じゃないんですよ、当時の商社マンは(笑)。

商標権・意匠権との戦い

国内企業との取引だけでも様々な契約が発生しますが、それが海外企業との取引ともなると、問題は複雑に絡み合っていきます。今も昔も変わらないトラブルの一つが訴訟問題。宮田さんによると、企業の中で法務部という部署ができたのは、1970年以降だといいます。その理由は、その前後から公害やその他様々な理由による大きな訴訟が起きたから。「海外との貿易や取引、それから外資の侵入など様々な事情で、当時いわゆる「訴訟法務(起こった問題を処理するための法務)」から「予防法務(法的な紛争が生じないようするための法務)」への転換が必要になり、法務部ができあがっていったらしい」と話をしてくれました。

宮田さん
わたし自身が伊藤忠に入って最初に直面した法務問題が、商標権の侵害問題。ちょうど入社した年の6月に起こったと記憶しています。

入社したばかりでしたから詳しくは知りませんが、当時韓国で作っていた日本向け靴製品の2級品を韓国のメーカーが処分したいということで、それを関西系の量販店が買い付けるのにあたって、輸入代行をわたしらの部署がしたんです。いざ量販店が店頭で売り出したら、日本メーカーのブランドが付いたままの靴が混じっていて、そのメーカーに商標権侵害だと訴えられました。メーカーも大事なお客様である量販店と喧嘩はできないので、輸入代行を行った伊藤忠を訴え、それが新聞記事になってしまったのです。

その事件があってから、靴の商標権・意匠権に対して伊藤忠はすごくナーバスになってね。輸入するものは全て商標権・意匠権の侵害のおそれがないかチェックしろと厳命されていました。でも靴って大きなものではないから、基本パターンはどれもほぼ同じなわけです。だから、写真や図面だけで見ても似たものがいっぱいあるから、無難な選択をしようとすると意匠権が既に切れている過去のデザインしかない状態(笑)。アクセントの刺繍やワンポイント・マークも商標にあたるというので、弁理士事務所に調査してもらうと、これまた似たような登録商標が見つかって、ダメってことになるのです。

お客さんは「いま売れている製品と同じものを作ってくれ」と言ってくるのに対して、「スンマセン、うちではそれはちょっとできません」と言うと、「他の商社は皆やってくれるのに、何であんたのとこはできないんだ」となるんですよ。だから、商標権・意匠権に対しては、わたし自身すっごく恨みがあったのです。商標権・意匠権について勉強して、「これなら大丈夫」と説得できるようになりたいなと、その時からずっと思っていました。

営業をやっていてこの在庫と商標権・意匠権の問題は苦労しましたね。日本での営業時代は本当に気苦労が多くて、酒ばっかり飲んでいたんですよ、好きなもんでね。

それでも営業時代に唯一、ヒットを打ったこともあるんです。商標権・意匠権の問題でお客さんが指定する売れ筋商品のコピーものは出せないし、一方で誰でも作れるような平凡なものだったら、価格勝負となり利益が取れない。だからもう、「自分たちでブランドを立ち上げよう」となったんです。フリーのデザイナーと契約して、そのデザイナーの描いたデザイン画をベースにした女性用(女の子用)のスニーカーを作ったんです。靴から靴箱からインソールラベルから、すべて我々でデザインし、雑誌で広告宣伝もしたんですよ。それが「当社比」ですが大ヒット。でも、1年経ったら、売れない色やデザインの靴がドーッとたまってきて、在庫がいっぱい。困ったなとあがいていたところで、カナダに駐在することになったんです。駐在に出たときには「在庫を残した」という後ろめたさをしばらく引きずりました。

ヒットした時は、天下をとったような気分でしたね。どんどん売れるし大成功だと。すべて自分たちで企画した結果だったから、達成感はあるしね。それが営業時代では数少ない成功した部類のお話。でも最終的には成功のままでは終わらなかったという思い出ですね。

宮田 正樹さん

  1. 資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働を廃止し、階級のない協同社会をめざすという思想。 ↩︎

  2. 企業が採用試験期間よりも前に優秀な人材に接触して、採用を内定すること。 ↩︎

  3. 明治初期から第二次世界大戦終結までの時期に中国大陸・ユーラシア大陸・シベリア・東南アジアを中心とした地域に居住・放浪して各種の政治活動を行っていた日本人の一群。 ↩︎

  4. 日和る(ひよる) 「日和見」(ひよりみ)から派生した言葉で主に学生が用いた「妥協する」という意味。 ↩︎

この特集を見ている人はこちらも見ています

無料会員登録で
リサーチ業務を効率化

1分で登録完了

無料で会員登録する